晩秋になれば、信州の渓流は黒くなる。川底を照らした夏の太陽が傾き、日差しが届かないためだろう。それでも谷を下りていけば、水はいつも通り澄んでいて、流れはとどまることを知らない▼渓流釣りが禁漁になり、きのこ採りはもうすぐ終わる。人間が去った山に入り、濡れ落ち葉を踏みしめ、立ち上る甘い香りを吸い込む。赤や黄色の葉を敷き詰めたよどみで、警戒心を解いたイワナが産卵の準備をしているだろう▼山行記「北八ッ彷徨」を発表し、登山者を北八ケ岳に誘った山口耀久さんは、秋には「厳しい運命への予感」があると記した。さまざまな命を抱く八ケ岳はそれを知っていて、「それを恐れない偉大さがある」とたたえた▼南北に連なる八ケ岳は夏沢峠を境に北八ケ岳と南八ケ岳に分けられる。山口さんは、標高の高い岩稜の南を「情熱的な山」、苔むした森が続く北を「瞑想的な山」と表現した。北八ケ岳には「さまよい」という言葉が一番似合うとつづっている▼山の中で孤独な思索にふけっても、いつかは人間社会に帰らねばならぬ。選挙前に憲法前文を読む習慣がある。「そもそも国政は国民の厳粛な信託によるもので、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者が行使し、その福利は国民が享受する…」。自分自身の目で候補者の”色”を確かめ、厳しい運命を受け入れる覚悟で投票できたのか。今も自問している。
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